映画と三流音楽家

text by 大塚宏将(chibinova)
 数年前、ぼくは天神橋筋6丁目にあるホクテン座という映画館にいりびたっていた。

そこは封切から1年以上が経過した、安いフィルムばかりをかける名画座、といえば聞こえはいいが、要するに潰れかけのおんぼろ映画館だった。実際、しみだらけのシートの上は、無数の小さなゴキブリたちで埋め尽くされている。とても女の子をデートに誘えるようなロケーションではない。でも過去に一度だけ彼女と連れ立って、ここで映画を観たことがある。その子とは、クリスマス・イヴに大ゲンカをして別れてしまった。

 ここはオールナイト上映をしているので、夜7時頃になると付近のホ−ムレス達が、かりそめの宿を求めて集まってくる。彼等はひっそりと酒盛をし、ひっそりと眠りにつく。そして誰にも知られることなく、ひっそりとその生涯を閉じるのだろう。諦観に支配されているのは、何もトンガった若者達だけでない。だからと言って、何かを声高に叫ぶわけでもない。彼等はただ目立たぬように、ささやかながらも変わらぬ日常を送れればそれで満足なのだ。

 すえた匂いの満ちるだだっ広い空間にひとはまばらで、独特の倦怠感が場内を支配している。銀幕に映し出されるドラマは、たまにおもしろいこともあるけれど、大抵がつまらない退屈なだけの恒常的な風景だ。映画監督の中には意図的に観客の退屈を助長
させるような演出をする人もいるそうだが、一体どういう神経をしているのだろう。わざわざそんなことをしなくても、この場にいる人間の中で、真剣に映画を見ているやつなんてひとりもいない。たいていの連中は、酒をちびちびやりながら、低い声で明日の天気の話などしている。かく言うぼくも、ここで観た映画の内容など少しも憶えていない。例えば『パリでかくれんぼ』なら、主人公の女の子のパンチラしか記憶にない、というていたらく。

 ふと目が覚めると、シャーロット・ランプリングがナチの制帽を被り、あまり豊かではないが形のいい胸をさらけだしているところだった。彼女はスクリーンの中で、日に何度SS達の目を愉しませるのだろう。腕時計に目を落とすと、針は午前3時を指し示している。

 ぼくは音もなく通路を通り抜け、ロビーへ出る。自動販売機で不味くてぬるいコーヒーを買い、残り少ない煙草に火をつける。扉からしみ出すような、登場人物達のかすかな声。窓の外から侵入する、眠らない街のざわめき。そんな音たちのせいで、ぼくはいつになく感傷的な気分に包まれる。まるで自分が、ブラッドベリの小説の中へ迷い込んだかのように。午前3時という時間帯には、人を脆くさせる何かがある。

 ぼくはもう何年も音楽をつくっているけれど、それが生活の糧になりそうな気配はまったくない。才能がないせいなのか、それともただ運が悪いだけなのか。ぼろぼろのソファに体を投げ出し、全体重をあずける。そんな少しばかりの平穏な時間、ぼくは
やたらと内省的になってしまう。一体なにがいけないんだろう。答えなど望むらくもない。

ぼくはこんな所で、一体何をしてるんだ。誰もいない家を逃げ出し、誰もいない映画館に流れついたのか。とりとめもない考えが頭の中で膨らみだすと、その途端にまた睡魔が襲ってくる。たぶん次に目が覚めるのは、空が白みはじめる頃だろう。