漆黒のなかに浮かびあがるもの──『ぼんち』

雨が激しく降っている。もう一度暑くなる、と聞いたが、もうあとは一気に晩秋へと 向かいそうだ。

『ぼんち』(市川崑監督 1960年大映)をテレビで見ていた。放映を知っていたら、録画したのに・・・残念。これは10年ほど前か、やはりテレビで見て感銘を受けた作品だった。船場の足袋商家が舞台で、たしか山崎豊子さんの原作だったと思う。同時期に読んだ谷崎潤一郎の『春琴抄』に登場する、大阪の道修町と重なる優雅なイメージがある。こないだ今里にあるbghsの家に行き、彼が酔って寝てしまったので明け方そっとchibinovaと帰宅する際、近所に大きな蔵のある木造の屋敷があり、その美事さに感銘を受けたが、昔はああいう町並みは珍しくなかったのだろう。暗闇にゆらりと立つ木塀の高さ、そこから発する時間的量感に圧倒される。マンションやモルタル一戸建てに住んでいる私たちには、それは幻想をかきたてるものだ。いつからこうした日常的生活空間は、非日常的幻想風景に変質し始めたのか──『ぼんち』では、もともとは当たり前の、どこにでもあるようなそうした風景がそろそろ「懐かしさ」に変容しつつある高度経済成長期に、消え去るものを必死で留めようとする動きのなかで撮影されたのであろう。

それにしても美しい映像。冒頭や要所で大写しにされる、黒い瓦屋根、屋根、屋根瓦。ロラン・バルトの讃辞を待つまでもなく、黒い瓦屋根の並ぶ風景の、なんと迫力のあることか!黒い。茶色い黒、灰色の黒、微妙に異なる黒のゆらぎ、黒による交響楽。黒の存在感は圧倒的に、歴史、その時間のチャートである。また、人々の所作の美しさ。ゼスチュア(動作)とはことなる、それ以前の微妙な何ものかの表明。もちろん、そうした所作は男性に都合の良い社会の表れでもあるのだが、その限られた状況のなかで自由を満喫しようとする美しい女たちの格闘の動きでもある。遠慮がちに、中腰に・・・女の所作の美しさだけではない。中村雁治郎が、最後に仏壇にそっとお金を置いてゆくシーンなど、ああいう動作は今どこで見られるか、という滑らかさだった。

着物や食べ物、そのほかいろいろ。芸者遊びに取って代わり、勃興しつつあったミナミのカフェーの様子。越路吹雪が野性味溢れる、かっこいい女を爽快に演じる。若尾文子も最高に美しかった。彼女が最後、並べられた札束を首を左右に滑らしながら見比べ、一番分厚い札束を、それでも「建前は」恭しく受け取っていく仕草の艶っぽさ。京マチ子は、北野恒富や竹久夢二伊東深水といった美人画の系譜を銀幕において演じきっている。何もかもがファンタジーである。エンディングで、真っ暗な画面、商家の玄関だが何も見えない黒、そこから漏れる外の明りだけが映り、そこから戸を開けて去ってゆく市川雷蔵が遠く映って映画は終わる。黒が支配する、女の幻。「一夜の夢」ということを表わすのに、これほど的確な映画があるだろうか。