夏に聴く『展覧会の絵』

みなさんは、「ゲームブック」というものをご存知でしょうか?今でも推理小説を沢山出している創元推理文庫のシリーズや、若者向けのアドヴェンチャー小説を出している富士見書房などといった版元が、こうしたゲームブックを出していたように私も記憶しています。

この、ゲームブックというもの、今から考えると、実に、本の可能性を最大限に活用していたな、と思います。つまり、この本は、最初から最後までまっすぐに読み終えてゆくのではなくて、読み手はあっちからこっちへ、またまたこっちからあっちへと、自分の決断のままに、スリル満点に項をめくってゆくのです。たとえば、冒険者であるあなたが、迷宮の中にいます。あなたの前には左右に分かれ道がある。すると本の中には「右へ進む→124 左へ進む→75」といった、選択肢が出てくるのです。そしてそのどちらを選ぶかによって、物語は全然違う方向に向う。進んだ先の場面は、まったく違う項からそこに至る場合もあります。どの文脈からその場面に進むのかによって、同じ「化け物がいる!」といった文章が、全然違うイメージを想起させてくれるのです。よく前衛的な詩集なんかで「この本はどこからでも読める、辞書的な書物」みたいな、七難しい哲学的説明が付けられていることがあります。立体的なテクスト、著者からの自由云々・・・・けれどゲームブックは、そんなややこしい文学理論など知らなくても、終わりから始まり、途中から前半へ、といった、通常とは異なる読書をどんどん楽しませてくれるのです。

こんなことを偉そうに言っている僕は、けれど実はまともに向き合ったゲームブックは一冊しかないんです。それが森山安雄『展覧会の絵』(創元推理文庫 1987年)でした。この本の中では、主人公である読者の「あなた」は、自分の名前も過去も一切を忘れてしまっている。「あなた」は自分の記憶を取り戻すための、旅をするのです。賑やかな市場に出てくることもあれば、不気味な地下墓場におののくこともある。さらには、鶏の脚をもった不気味な小屋で、正体の分からない何ものかと、音楽で対決するのです。アイデンティティを持たない、根無し草の「あなた」。しかし「あなた」は琴をもった吟遊詩人であることだけは確かで、音楽があなたの武器なのです。

冒険に次ぐ冒険。はらはらする旅のなかで、しかし「あなた」はいつも誰かに助けられ、導かれていることに気付く。「あなた」は独りではないのです。そして旅の終わりに、「あなた」は、その導き手がかけがえのない親友であったこと、しかも親友はもう「あなた」の居る世界には居ないことに気付きます。そして「あなた」は知るのです。友人の名はハルトマン、先日急逝した不遇の画家であり、あなたはその遺作展を悲嘆のうちに見に来ていた、音楽家ムソルグスキーだったのだと。

僕はロール・プレイング・ゲームについてはあまり詳しくありません。ここまで書いておいて実にお恥ずかしいのですが、実は「ファイナル・ファンタジー」すら僕はやったことがないんです。そんな僕がこうした種類のゲームについて語るのは僭越かもしれない。けれども、僕は確かに、この『展覧会の絵』というゲームの中で、呼びかけられている「あなた」つまり僕は独りぼっちではないことを、それが非現実の文章の連続であるにもかかわらず、実体験として味わう幸運を得たのでした。そもそもこのゲームブックのテクストに「あなた」という呼称で呼びかけられたときから、僕は独りではなかったのです。

さらに恥ずかしいついでにもう一つ告白をすれば、僕はこの時点で、まだムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴いたことがありませんでした。しかしこのすぐ後、数奇な巡り合わせとでも言いましょうか、ゲームブックの余韻からも醒めやらぬうちに、僕は真夏の高校総体の開会式セレモニーの中、炎天下で「バーバヤーガの鶏の脚の小屋〜キエフの大門」の部分を体験することになったのです。暑さで朦朧とした中、落ちてゆくような深い青空に広がるキエフの鐘の音は、このハルトマンの追悼のイメージと、原爆追悼の鐘のイメージの混淆となり、なにかとてつもない荘厳な、聖なるものとして僕の耳に刻み込まれたのでした。

展覧会の絵』を、僕は後にオーケストラやピアノ曲、さらにはエマーソン・レイク&パーマーのロックなど、様々な媒体で鑑賞することになったのですが、このドラマに満ちた組曲は、友との別れ、死、そして、その受容と再出発という、浪漫としてあまく切なくもあり、しかし今生きている僕がしっかり足を地面に踏ん張ることを促すような、繊細さと力強さの間の相互運動を、今でも僕に体験させてくれるのです。