『お天気の話』

 よく知らない人と何か話さなくてはならないとき、知り合いでも特に話す事がなくて間持ちしないとき、よく話題にされるのが、「今日は暑いですね」とかいう気温の話とか、「晩から雨が降るらしいよ」とかいった、いわゆる『お天気の話』ではないでしょうか。


  実際、その会話が大いに発展する事を期待するでもなく、また、お天気そのものに興味がさほどあるわけでもなく、単調にに繰り返されていく話題。例えば雨がこれから降るからといって、自分や相手にさほど大きな問題ではない事がほとんどでしょう。せいぜい、服が濡れてしまうとか洗濯物を干したままでぬれてしまう、という程度の問題で済むのが普通です。


  A「今日は雨が降るらしいよ」、


  B「なに!それは大変だ!家が川に流されるかもしれないから帰らなくちゃ!」


とはならないのです。(そうゆうシチュエーションがあれば見てみたい気もしますが。。)


  この手の「どうでもよい」話題ですが、実は「どうでもよくない」のではないか、と思います。意識的であれ無意識であれ、『お天気の話』がなされるということは、なんらかの興味を示すものであり、それが「今の事象であれば温感や視覚、聴覚などの体感を通して話されているはずで、これは「記憶」とも関係してくるものでしょう。僕は寒いのが苦手で、よく「常春の国」があれば行きたいなぁとか考えるのですが、いつもその後すぐに、快適でも季節がない国にいってしまったら(そこで体験する事の)記憶が無茶苦茶になってしまうなぁと思い、暑い寒いのがあるのがいいのだなと考え直すのです。(要は、「アレがあったときはあん時ゃ寒かったので2月ごろじゃないか」とかいうことです。)


  しかしながら、日常において天気や気候といったものに対しては、意識的ではないのが普通だと思います。天気や気候が気分や気持ちに影響を与えることはあっても、気分や気持ちが天気や気候に影響を与えることは無いのは、当然の話です。でも、この起こり得ない事象が当たり前のように起きる世界があるのです。



  それは小説や映画の世界です。ロマンチックな気持ちを表すために、雪が降ったり、悲しみを表すために、雨が降ったりするのです。僕らの住む世界ではこういった事は生じません。いわゆる「演出」というやつで、現実世界ではそんなものは無いのが通常です。ここでの挙げているのは、あくまでお話の背景画として描かれる「お天気」なので、大洪水だとか、火山の噴火といった、登場人物の行動に影響を与えてしまうであろうものは除きます。お話の内容そのものに影響を与えないという前提で、僕らは「背景画」のみを変える遊びを頭のなかですることが可能です。たとえば、『ローマの休日』のラストシーンで(描かれていない)建物の外はじつは大雨なのではないかとか、曇天続きの『ウォーターボーイズ』とか、、、いろいろ想像してみると面白いのではないでしょうか。


  2003.11.8記 (暖冬・曇り・夕暮れ)