【老人と音楽】

大学の実習で、キリスト教系のある老人病院に出かけた。お年寄りのお話を、ひたすら耳を傾けて聴く。それが実習のすべてだった。

「わたしはジャズが好きでね。ビリー・エクスタインなんか、大阪の国際楽器に出かけていって、輸入を頼んだもんよ。国内で置いてないっていうからね。」と、リウマチで全身が動かず、数年来寝たきりの女性は語った。彼女は音楽のことを語りながら、そのときは痛みも苦しみも忘れて、音楽を聴いたその時の、若い無鉄砲な小娘に戻っていた。フランク・シナトライブ・モンタンルイ・アームストロングジーン・ケリー・・・・太い歌声、繊細な声、様々な歓びの声が、話を聴く僕にも確かに伝わってくる。それは昔の話でありながら、昔の話ではない。まさに“今”彼女と僕の耳元で聴こえ続けている音楽なのだ。

痴呆の男性が、大声で黒田節、そして美空ひばりの『悲しい酒』を歌い上げている。今、彼はどこにいるのだろう。病院の廊下で、車椅子の上にいるのか。思い出の家具もなく、家族もいない、白くて狭い三人部屋の中なのか。それとも、木造家屋、近所の悪餓鬼どもが走り回る、あの路地の見慣れた植木鉢の並びの前にであろうか。悪餓鬼どもが盆栽の枝を折らないか、はらはらしているのであろうか。──彼は病院の白い天井を見ているのであろうか。盆栽を青々と照らす秋空を眺めているのであろうか。

音楽は娯楽である。僕たちは大量の音楽を、毎日毎日消費し続ける。音楽はこころとからだをリラックスさせる享楽なのであり、こころの清涼飲料水なのであって、今の自分がリラックスできればそれでよい。そのときは気にもしない、CMのうしろで流れる音楽、スーパーの買い物のとき、肉売り場で聴こえてくるフレーズ・・・・それらの一曲一曲に、いちいち心を傾けていては、いくら時間と暇があっても足りない。僕たちは適当に音楽を聴き飛ばしている。テレビやラジオで聴かなくなって数ヶ月がたてばあっという間に忘れ去ってしまう音楽。しかし、本当に忘れ去っているのか。忘れた音楽は、僕の世界から消えてしまったのか。聴き飛ばされた音楽たちは、決して消え去るのではない。僕たちのこころのなかに確実に、人生のチャートとして積み重なっているのである。

僕もいずれ、年を取るであろう。僕は自分では歩けなくなり、頭もぼうっとして、紙おむつをつけなければならなくなるかもしれない。けれど、いつの日か聞き流したあの音楽が記憶の中で蘇るとき、僕はいつでも若々しくなれるはずである。なんとも思わず聴き飛ばしたあの歌詞、あのメロディが、いつか突然僕の記憶に蘇ってきて、僕をいつでもそのときの景色、そのときの匂い、そのときのあの人の許へと連れ去ってくれるであろう。僕にとって、直線的な時間の流れはもはや問題ではなく、好きなときに、幸せなあの時に戻ることができる。病院で一週間、人生の先輩達とゆったりとした時間をすごし、そんなことを考えた。